魚は自分で招いて用意周到な準備で補足する

三菱の創設者岩崎弥太郎の言葉に次のようなものがあります。

「一日中、川の底をのぞいていたとて、魚はけっして取れるものではない。
たまたま魚がたくさんやってきても、その用意がなければ、素手ではつかめない。
魚は招いて来るものでなく、来るときに向かうから勝手にやってくるものである。
だから魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない
人生全ての機会を捕捉するにも同じ事がいえる。」

岩崎弥太郎は武士から実業家に転身して、三菱財閥を創業した今でいえばベンチャー企業の走りの様な明治の偉大な実業家です。
身分差別の激しかった土佐に1835年に生まれ、幼いころから文才を発揮して、頭脳明晰だった弥太郎ですが貧困の中で苦学をすることになります。

そこで出会ったのが土佐の藩政(今でいう官房長官)で土佐藩随一の学者である吉田東洋でした。
猛烈に勉学に励んだ弥太郎は十四歳の時には当時の土佐藩主であった山内豊熈に漢詩を披露してその才能を認められます。
二十一歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ留学して明治の動乱の中に身を投じてゆきます。
その後父親の投獄とその是非をめぐる議論で自身も投獄されますが、この獄中で同房の商人から算術や商法を学び、その後の弥太郎の基礎をつくる経験となります。

出獄後は吉田東洋の塾で後に明治政府で逓信大臣や農商務大臣を歴任する後藤象二郎や自由民権運動で有名な板垣退助などと知己を得ます。
その後土佐藩の役人となり土佐勤皇党の武市半平太や坂本龍馬等ともかかわりを持ちながら歴史の表舞台に出てくるわけです。

晩年は酒色に溺れたり、渋沢栄一と激しく争った明治15年7月、共同運輸会社と日本郵船とのダンピング合戦など何かとスキャンダルの絶えない弥太郎でしたが、このハングリー精神と勉学への情熱は現代でも大いに学ぶ点があります。

弥太郎の言葉にある「魚とりの手法」は、当にビジネスでいう事業開発や営業顧客獲得の極意を端的に指していると思います。
またそれは全ての職種と自分の人生(プライベートにおいても)言える事であると思います。

売上は数量X単価であることは何度かお話ししてますがこの数量=顧客の数と考えれば、当に魚はお客様に相当しています。

魚は見ていても取れません!
たくさんの魚が来たとしても準備をしていなければ逃してしてしまいます!
しかも魚は自分から招き寄せることはできず来るのを待つだけだとしたら来るための仕掛けをして網を構えていなければ取れないのです。

改めて弥太郎の言う事を読み返せは、なるほどと言わざるを得ません。
皆さんは3か月先、半年先、1年先を見て今この時を動いていますか?
そして先に来るであろう大きな魚の群れを捕まえるべき準備をしていますか?

今一度、自身のアクションプランを見直し、今できている事とできていないことの棚卸をして将来掴むであろう大きな魚の大群をワクワクしながら描いて行動を起こしましょう!

 

このコラムは協議会メンバーが執筆しています。
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